つぶやきと論稿(1)

つぶやき2010/05/16

 

二つの『昭和史』――鳥瞰図をもとめて――

 

現在、大正から昭和初年にかけての議会と内閣などについていろいろ調べています。そうすると、この時代についての過不足のない、客観的で公平な時代の鳥瞰図がどうしても必要となります。この鳥瞰図は、自分が調べているテーマがその時代のなかで、どのような位置づけや意味をもっているのかを確認するために是非とも必要なのです。そこで自分なりの鳥瞰図をもたなければなりませんが、これを一から一人で作るわけにいきません、これはまず不可能です。ここは、どうしても先学の業績の助けが必要となります。ということは、鳥瞰図としての要件を備えたすぐれた著作を探り当てることが必要となってきます。

 現時点で、私が、比較的安心して鳥瞰図として参考とさせていただいているのは、中村隆英氏の『昭和史』1993年、東洋経済新報社)です。

 昭和史を正面から論じた「古典」として遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』〔新版〕(1959年、岩波新書)があります。中村氏の論考のテーマと、岩波新書の『昭和史』が扱ったテーマと多くのところで重なっています。しかし、中村氏は、昭和史の叙述を始めるにあたって、その前提となる知識として、「社会体制」「時代思潮」「原敬の内閣」を取り扱っています。

「社会体制」では、政治制度・財界の構造・戦後の社会・対外関係――アジアと日本――が構造的に叙述されています。「時代思潮」では、デモクラシーから社会主義への流れと革新派ナショナリズムの実像が、一方の思想に思い入れるのではなく、客観的かつ内在的な紹介がされています。「原敬の内閣」では、内閣の成立・軍備拡張と積極政策・社会政策と普選同盟・皇室問題――元老と原・原敬の対外政策――ワシントン体制の成立・ワシントン会議がとりあげられ、とりわけ支配層内部の具体的な動向が人物の内面的な分析とともに紹介されています。このような叙述の仕方は、法制史をやっているものにとって説得的で親近感のあるものとなっているのです。

 第一次世界大戦後の社会を概観する「戦後の社会」では、マルクス主義が若い知識人や労働運動の指導者たちに大きな影響力を与え、重化学工業が発展して工場地帯に労働者が集住したことは労働運動を発展させる条件となったことを認めながらも、一方で農村や地方都市での名望家の支配力が依然として強かったことを指摘している。

 

「思想的にいえば、デモクラシーの発想がようやく若い知識人たちに浸透しはじめていた。吉野作造の民本主義の議論が一世を風廃した。フランクリンも、ジェファーソンも、ミルも、マルクスも、バクーニンも、ひとしく新しい思想家として尊敬の的である。しかしすぐに、ロシア革命の衝撃から、マルクス主義が若い世代をとらえるようになった。東大法学部を中心とする新人会や早稲田大学の建設者同盟の青年たちが、やがて労働運動や農民運動に飛び込んでいくのは、まさにこの時期にはじまる。労働争議がにわかに活発化したのもまたこの時期である。労働争議の件数は、一九一八(大正七)年四一七件(参加人里ハ万六〇〇〇人)、一九年二三八八件(三三万五〇〇〇人)、二〇年一〇六九件(二一万八〇〇〇人)。もって労働運動の急激な台頭を知ることができよう。

 マルクス主義的な世界像は、この時期の社会を理解するためにきわめてぴったりしたものであった。個人的な大資本家たちが巨額の富を蓄える一方で、米価は上昇し、実質賃金はむしろ下落し、貧富の差が拡大して、米騒動が引き起こされるような状況のもとで、若い知識人も労働運動の指導者たちもマルクス的な階級闘争の発想を素直に受け入れたことは当然のことだったといっていい。しかも、かつての繊維産業の時代から、ようやく重工業や化学工業が展開し、成年男子の労働者が京浜、阪神、北九州などの工場地帯に住み着くようになったことは、労働運動を発展させる条件になった。

 工場地帯が成立したことは、近代的な都市が形成されはじめていたことを意味する。この時期の東京や大阪の都心部は、なお古い江戸や大坂の面影を残していたかもしれないが、都市は私鉄網の成立によって外延的に延びていった。大都市には市内電車が走るようになり、都市計画が施行されて公園や街灯が整備されていたけれども、都市の外側には、工場やサラリーマンや労働者の住宅街が無秩序に形成されつつあった。京浜間や阪神間の海面は埋め立てられ、工場地帯が形成され、菜っ葉服の労働者で充たされはじめていた。都市の中心部は依然として昔ながらの商人や職人の世界であったが、都市の外側は近代工業とサラリーマンや労働者の街に変容しつつあった。

 大戦による農産物価格の上昇は、農家の経済を一時的にもせよ改善した。とくに米作技術の改良、現金収入源としての養蚕の普及、旦雇い労働の機会の増大などによって、農家は一時的なブームを満喫した。しかし、全国の農地の半分近くは地主のものであり、自作農も一部は小作を兼ねる場合が多く、小作農は収穫の約半分を物納しなければならなかった。農村や地方の小都市における地主をはじめ、質屋、醸造業者など名望家の支配力は、ブームのもとにおいても依然として変わらなかった。一般化していうならば、農村や地方都市には、物持ちや旧家として知られる名望家たちの社会層が存在した。彼らの多くは地主であり、米穀商、肥料商、呉服店、酒造業などを兼ねる場合が多い。彼らはまた、各地方の銀行、私鉄をはじめとする企業の重役であり、密接な姻戚関係にある。政治的には、多くの場合政党に所属し、地方議会の議員であり、場合によっては衆議院進出を狙う。政党の対立によって名望家たちは複数のグループに分かれ、しばしば激しい対立を生ずる。中央政党、とくに政友会は、これら地方の名望家に対して、鉄道の敷設をはじめ、道路、港湾、橋梁、教育機関などを国費で建設するという好餌を与え、これによって政党化を促進し、勢力の拡張を企てる。憲政会もこれに対抗して名望家を組織する

 このような地方への利益の供与によって政党勢力を拡張する政策は、政友会の星亨によって明治三〇年代に開始され、原敬によってうけつがれたが、大正期になると知事の任免すら党派的に行われ、内務官僚は事実上、政友会系と憲政会系とに色分けされる状況が生じていた。日露戦争後、三たび内務大臣を務めた原敬は、若手官僚を政友会に引きつけて優遇、抜擢し、これに対し伝統的な官僚機構は、山県有朋と桂太郎を首領と仰いでこれに対抗する状況であった。以上のような社会状況は、まさに大戦の結果発生した激しい変動を象徴する。伝統的な軍人や官僚がこれに対処できなかったのは当然であった。そのなかにあって原敬の内閣がいかに対処していったかをみなければならない。」(中村隆英『昭和史Ⅰ』p.15-17

 これに対して、『昭和史』〔新版〕(1959年、岩波新書)は、都市における重化学工業の進展と労働運動の発展やマルクス主義の影響力の増大について触れているが、中村で描かれているような農村と地方都市での名望家支配およびそれと政党政治との関係がまったく脱落している。

 

支配層内部の具体的な動向が人物の内面的な分析とともに紹介されているということは、政友会内閣を形成した原敬と元老山県有朋との関係を描いたつぎのような叙述に見ることができます。

 

 「(大正天皇の病状・皇太子の外遊・婚約・摂政就任などの件で)かつて政敵の関係にあった元老山県と原とは、これらの協力関係を通じて、最も密接な信頼関係に入ることになった。原はしばしば山県を訪問し、政界の問題や、国際関係や、宮中の秘事について懇談することを怠らなかった。原としては政友会内閣を持続し、党勢を拡張することが目的だったのに対し、山県は的確な判断力と鮮やかな政治手腕にほれこんだのであって、その立場には大きな開きがあったが、これらの表沙汰にできない事件の処理を通じて両者は密接な協力をつづけたのである。」

 

『昭和史』〔新版〕(岩波新書)では、原敬内閣については、その成立の経緯と元老との関係については、以下のように叙述して山県と原の内面的な関係に筆が及ぶことはない。

 

「米騒動ののち、政党ぎらいの元老山県有朋が原敬に政友会内閣をつくらせたのは、官僚内閣はもはや米騒動後の人心をしずめることができないとさとったからであった。」「ときに「平民宰相」原敬は、こうした世論を背景に政党の地位を高めながら、自党の党勢拡張につとめた。そして一方では、野党の普選案を「現在の社会の組織にむかって脅迫をあたえるもの」としてこぱみ、他方では、元老との正面衝突をさけながら、その譲歩をもとめた。すなわち官僚・軍部のにぎる絶対主義的な支配機構を徹底的に改革するのではなく、これを政党政治の武器として利用しようとする行き方であった。そして政友会の地盤を大資本家や地主の間にきずいた。そこで政友会内閣の「党利党略」は、はやくも世論の不信をまねき、原は二一年十一月、東京駅頭で暗殺された。」

 

 

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